グランド・ロビーのアプローチなど。 内装は初代クイーンエリザベスの就航した1930年代のアール・デコを基調として仕上げられている。 デッキは12層で客室は全部で1029室ある。 そのうちの838室は海側の客室(オーシャンビュー)である。

qe42d.jpg グランド・ロビー、デッキ1・2・3階吹き抜けに客船を描いたデザイン。 「QE」自慢のアプローチ。

qe45d.jpg


qe44d.jpg ザ・ベランダ・レストランの入り口付近 1。

qe43d.jpg ザ・ベランダ・レストランの入り口付近 2。

qe40d.jpg コモドアー・クラブ。 バンドが入るホール。

qe39d.jpg 前「QE」号の絵画。

http://homepage2.nifty.com/nobu_ishi/
http://nobuyasu27.exblog.jp/

 ☚ おいでやす 左のマーク押してね。

スポンサーサイト





今回の「クィーン・エリザベスの旅14日間」は イタリア・ヴェネツィアで終りです。 成田からドバイを経由してギリシャ・アテネ・ピレウス港から乗船し14日間の「QE」の旅は、あと一回掲載で終わります。 ヴェネツィア空港からドバイを経由して帰国しました。 外国の旅行代理店(安いので)飛行機、ホテルを個人手配で申し込み英語での手配がまずかったりの危険な旅でした。 いい経験にはなりましたが、これが最初で最後の終わりにします。 

qe46d.jpg ヴェネツィア Venezia 3(V3)117に停泊する「QE」号 1。

qe49d.jpg ヴェネツィア Venezia 3(V3)117に停泊する「QE」号 2。

qe48d.jpg ヴェネツィア Venezia 3 港に停泊している他船。 「QE」号から撮影。

qe47d.jpg ヴェネツィア Venezia 3 港に停泊している他船。 「QE」号から撮影。

qe38d.jpg デッキ1 グランドロビー付近の絵画。

qe37d.jpg デッキ1 グランドロビーでハープシコードの演奏。 時間帯によって演奏は変わる。

qe41d.jpg デッキ9 リド・レストランの寿司コーナー。 お世辞にも美味しいとはいえない。

http://homepage2.nifty.com/nobu_ishi/
http://nobuyasu27.exblog.jp/

 ☚ おいでやす 左のマーク押してね。






サンマルコ広場付近
ナポレオンはこの広場を「世界で最も美しい客間」と呼んで絶賛した。と、伝えられる。 広場の大きさは157m×82mの大長方形。 12世紀半ば、ときの大守が建設に着手、18世紀初めに石畳が完成したそうです。

ven66d.jpg


ven75d.jpg


ven46d.jpg 
大鐘楼。 高さ96.8m。 10世紀に物見の塔をかねて造られた鐘楼が、1902年7月14日倒壊した。 翌年から9年かけて再建されたのが、現在の塔です。 先端に立っているのは、風でまわる天使の像だそうです。

ven63d.jpg ドカーレ宮の外壁。

ven65d.jpg ドカーレ宮の外壁。

ven73d.jpg サン・マルコ広場東側の1Fに店舗がある建物の2~3F。

ven74d.jpg ドカーレ宮殿。 16世紀後半に完成した。 歴代の太守の政庁兼宮殿。 司法の絶対権を持つ10人評議会、立法府の大評議会など、3権がこの建物から力を振るった。 いわばヴェネツィア共和国の富と力の本拠である。 「文書の間」「巨人の階段」 10人評議会の控えの間にある密告書投入口。 大壁画「天国」などなど、見どころは沢山ある。

http://homepage2.nifty.com/nobu_ishi/
http://nobuyasu27.exblog.jp/

 ☚ おいでやす 左のマーク押してね。






ヴェネツィアの歴史 5。
1797年、ヴェネツィア共和国はナポレオン・ボナパルトに侵略され、ついに崩壊しました。 ナポレオンはその領土をオーストリアに引き渡しました。 オーストリアは1805年にフランスが支配するイタリア王国に譲りましたが、1814年には奪回。 オー

ストリアは港湾都市としてヴェネツィアよりトリエステを重税したため、ヴェネツィア経済は裏返しました。 その翌年、ヴェネツィアとロンパルデイアはロンパルド=ヴェネト王国をつくりました。 ヴェネツィア人はイタリアの政治家マニンの指導のもとで、lS48年にオーストリア支配に対する反乱をおこし、ヴェネト共和国を建国しました。 しかし、その翌年にオーストリアの攻

撃により降伏しました。 1866年に普壊戦争がはじまると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入されました。 1987年、世界遺産(文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録されました。  QEの案内より抜粋。


ven54d.jpg スキアヴィーニ海岸通りからサン・ジョルジョ島。

ven77d.jpg スキアヴィーニ海岸通りからゴンドラとサン・ジョルジョ島。

ven59d.jpg スキアヴィーニ海岸通り。 サン・マルコ広場に向う。

ven60d.jpg スキアヴィーニ海岸通り。 サン・マルコ広場に向う。

ven62d.jpg スキアヴィーニ海岸通り。 サン・マルコ広場に向う。 正面の建物は行政長官府。

ven42d.jpg スキアヴィーニ海岸通り。

http://homepage2.nifty.com/nobu_ishi/
http://nobuyasu27.exblog.jp/

 ☚ おいでやす 左のマーク押してね。






「ムラーノ島」
ベネツィア北方1,2kmにある島。 水上バスで15分ぐらい。 13世紀末以来、ベネツィア・ガラス工芸の本場です。 島は16世紀に解放されるまで 「ガラス作りの秘術が外部」 にもれるのを防ぐため、島は完全に封鎖されていました。 今日では工房の見学も自由にできます。 工房では熱したガラス原料をプーッと膨らまして、自在に形を作っていく名人芸を見せてくれます。

ven44d.jpg
水上バスのチケット管理器、必ずこの機械を通して乗船する。

ven55d.jpg ムラーノ島が近づいてきた。

ven57d.jpg ムラーノ水上バス乗り場。

ven56d.jpg ガラス工場の一つ。

ven58d.jpg 民家。

mur1d.jpg
古い水洗場。 水は貴重でと思うが、いいのかな。

mur2d.jpg 島のショッピングの案内。

mur3d.jpg ガラスで作られた照明器具。

http://homepage2.nifty.com/nobu_ishi/
http://nobuyasu27.exblog.jp/

 ☚ おいでやす 左のマーク押してね。






ヴェネツィアの歴史 4。
15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げました。 1538年におけるプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧

力となりました。 その上大砲の登場により干潟に住むメリットがなくなってしまいました。 その後の諸外国の侵略や、ほかのイタリア都市の攻撃で、ヴェネツィアの力は弱まりました。 また、1497~98年にポルトガルの航海者ヴアスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわるインド航路を発見したため、貿易の対象がアジアに移り、アメリカ大陸が発見され、時は大航海時代へ

遷ること共に貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下、衰退は加速されました。 これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処しました。 1508年、ヴェネツィアに対抗して神聖ローマ帝国、教皇、フランス、スペインは同盟をむすび、ヴェネツィア領土内にある財産を没収しました。 

1516年、ヴェネツィアは巧妙な外交でイタリアでの支配権をとりもどしたが、海洋国家としての地位は回復できませんでした。 QEの案内より抜粋。

ven53d.jpg サン・ジョルジョ・マジョーレ教会。

ven52d.jpg 
運河を行くゴンドラ。

ven50d.jpg 
運河を行くゴンドラ。

ven49d.jpg 
運河を行くゴンドラ。

ven47d.jpg ゴンドラの乗り場付近。

ven61d.jpg 「嘆きの橋」 ドカーレ宮と細い運河を隔てた牢獄を結ぶ橋。 17世紀の建築。 10人評議会で裁きを受けた罪人は、日の光がほとんど入らない牢獄へ連行される。 途中、この橋の窓から外界を眺め悲しんだ。と、いう話がある。

http://homepage2.nifty.com/nobu_ishi/
http://nobuyasu27.exblog.jp/

 ☚ おいでやす 左のマーク押してね。






ヴェネツィアの歴史 3。
11世紀、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を得ました。 1204年、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノポリス

を攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下におかれました。 ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力をぽこるようになりました。 東地中海から黒海にかけての海域が、いわば「イタリア

商人の海」ともいうべき状況になったことは、おなじ13世紀にヴェネツィアのマルコ・ポーロが、黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせました。 富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだて、13世紀末ごろには寡頭政治がおこなわれるようになりました13~14世紀には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いがつづきました。 1378~81年

の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認めました。 その後も侵略戦争で周辺地域に領土を獲得したヴェネツィアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力をもつ都市国家となりました。  QEの案内より抜粋。


ven38d.jpg スキアヴィーニ河岸通り。

ven39d.jpg


ven40d.jpg


ven41d.jpg サン・ジョルジョ島。 サン・ジョルジョ・マジョーレ教会の内部にはティントレット作「最後の晩餐」の壁画とパラディオ設計の回廊が有名です。 

ven3d.jpg ゴンドラ越しに見えるのは、サン・ジョルジョ島。


ven43d.jpg ダニエコ・ゴンドラ乗り場。

http://homepage2.nifty.com/nobu_ishi/
http://nobuyasu27.exblog.jp/

 ☚ おいでやす 左のマーク押してね。






ヴェネツィアの歴史 2。
9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣、そのため、トルチェツロにいた人は更なる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになりました。 このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」であ

ります。 810年に東ローマ帝国フランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属しますが、フランク王国との交易権ももつこととなり貿易都市への布石が置かれました。 このころ、ヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にありました。ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書

著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレクサンドリアにあり、ムスリムに奪われる恐れがあることを聞きつけ、828年、それを奪い取りヴェネツィアに運びました。 この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになりました。 10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大しました。さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていきまし

た。 ジェノヴァ共和国などの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となりました。  QEの案内より抜粋。

ven33d.jpg ヴェネツィアの街。 

ven34d.jpg 停泊地が近づいてきた。

ven35d.jpg ヴェネツィアの港は運河の街ということもあって、大型客船が10台は停泊できる波止場と設備を持っているようだ。 

ven36d.jpg わが客船「QE」はこのラインの左側に停泊した。

ven37d.jpg 右、ホランド・アメリカ・ライン・Prinsendam 総トン数 37,983トン。 左、Celebrity Silhouette 総トン数 122,210トン。

http://homepage2.nifty.com/nobu_ishi/
http://nobuyasu27.exblog.jp/

 ☚ おいでやす 左のマーク押してね。






ヴェネツィアの歴史
ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯であります。  古代、ヴェネツィア周辺の地域にはウェネティ人が住んでいました。 伝説では、アクイレイア、パドヴアなどの北

イタリアの都市の住民が、5世紀のゲルマン人のイタリア侵略からのこの湿地帯へと避難してくることから、452年にヴェネツィアの歴史が始まります。 この時避難してきた先が現在の「トルツチェロ島」であります。 足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることが出来ず、避難した人はここに暮らし続けるようになります。 干潟に住むメリットを保つため、干潟を荒

らしたり干拓したものを極刑にする、という法を作ったり、普段は船が通れる道を杭で示していたが非常時にはその杭を抜くなど、干潟を守り、かつ、有効に利用していました。 彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織し、アドリア海沿岸地域は元東ローマ帝国の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属しましたが、実質的には自

治権を持っていました。 697年、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めました。 これがヴェネツィア共和国の始まりであります。 つづく1世紀間は政府内部の不和のため不安定な政治が続きましたが、外敵の脅威に対して結束し、836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退しました。 10世紀後半からはイスラム

諸国と商業条約を結びましたが、これはムスリム(イスラム教徒)と戦うよりも貿易をしようというヴェネツィア人の現実的な政策によるものであります。  QEの案内より抜粋。

ven28d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:13AM

ven29d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:14AM

ven30d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:15AM

ven31d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:15AM

ven32d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:17AM

ven24d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:18AM

ven26d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:24AM

ven27d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:25AM

http://homepage2.nifty.com/nobu_ishi/
http://nobuyasu27.exblog.jp/

 ☚ おいでやす 左のマーク押してね。






交通に運河を用いた水上交通が頻繁に用いられることから、運河に画した玄関を持つ建物も多いです。 また警察や消防、救急輸送も車に代わり、船舶を用いてその業務を行っています。 現代のヴェネツィアは、他埠域への人口流出、水害や地盤沈下、大気や水の汚染、建造物の老朽化など多くの問題に直面しています。 1966年の大水害の後には、歴

史的な町を守るための国際的な運動がユネスコの主唱で組織されました。 大潮、気圧の変化、そしてアドリア海を南から吹く風 「シロッコ(scirocco)」 の3つの要因が重なると 「アックア・アルタ(acquaalta、高水の意)」 と呼ばれる高潮がヴェネツィア湾で起こります。 このとき、ヴェネツィアの街中まで水が入り込み、特に一番低い 「サン・マルコ広場」 は水

没します(広場や道路には臨時の高床が組まれ、通行を確保します)。 過去に北の対岸の本土マルゲーラ地区で工業用の地下水のくみ上げが行われたことにより地盤沈下が起こり、アックア・アルクによる洪水の水位が1m以上になったこともあります。 建造物の沈下鱒、地下の帯水層の流出が原因とされるため、地下水使用の制限やアルプスからの水道の

導入などで対処しています。 更に今後の地球温暖化によって海面上昇が加速されることとなれば、将来ヴェネツィアの街全体がアドリア海に水没してしまうことが懸念されています。 水没を防ぐために、アドリア海との間の3カ所に可動式の防潮堤を設ける 「モーゼ計画(ProgettoMose)」 が提案され、工事も着手されていますが、環境やヴェネツィアの潟(ラ

グーナ)に与える影響が懸念されるため、市長や多くのヴェネツィア市民の反対もあります。  QEの案内より抜粋。

ven7d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:06AM

ven8d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:07AM

ven9d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:07AM

ven10d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:08AM

ven20d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:08AM

ven21d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:10AM

ven22d.jpg ヴェネツィア 入港風景 7:11AM

http://homepage2.nifty.com/nobu_ishi/
http://nobuyasu27.exblog.jp/

 ☚ おいでやす 左のマーク押してね。







| HOME | Next


Design by mi104c.
Copyright © 2017 客船の旅, All rights reserved.